大瀧山西法院の歴史


大瀧山の歴史及び西法院

当山の開基は奈良時代、天平勝宝六年(七五四年)孝謙天皇の招きにより来朝された唐僧鑑真大和上であります。

また報恩大師が孝謙天皇の勅により、備前四十八寺を整備されるに当たり、当山もその内に加えられています。

国分寺を除いて国史に名を留める県下最古の寺院でもあります。後に真言宗に属し、寺観壮麗を極め、済世利人の道場として栄えていました。

万寿元年火災(第一回目)にかかり衰微し中古の歴史を欠く。室町時代(観応元年)代々の足利氏の保護を得て、盛時は三十坊を伝えたと伝う。

康生元年(一四五五年)赤松、山名の両氏の戦乱にあい、三重塔、仁王門を残し全山焼亡(第二回目)。江戸時代に至り、池田氏の保護厚く伽藍及び十三坊を整備し明治に及びましたが、時代の転換やむなく、現在の三ケ院(西法院、実相院、福寿院)となりました。

山内共有物の指定文化財

三重塔(国指定重要文化財)

②仁王門(県指定重要文化財)

③本堂(県指定重要文化財)…本尊は十一面千手観音菩薩

④経蔵中の鉄眠版一切経(備前市重要文化財)

⑤大師堂(備前市重要文化財)


大瀧山西法院の流れ

鑑真大和上、報恩大師、良圓大徳、良長大徳を先師に室町時代、延徳元年(一四八九年)印秀法印第一世に承栄律師第二世、祐快法印第三世に続き大十一世の大我阿遮梨により江戸時代、宝暦三年十月西法院、現本堂が再建立されました。

その後も歴代の住職により法灯は継承され、先師瀧山光正阿遮梨が第十九世となります。

檀信徒先祖代々の厚い信仰により法灯は護持され今日に至りました。

昭和五十七年密教婦人会結成と同時に花の境内にとの思いから、あじさいの定植を始めました。現在三千五百株、約四十種類に増やし、密教婦人会、寺総代を中心に信徒有縁の皆様の積極的な多年のご奉仕により、密教婦人会主催の「あじさい祭り」も開かれ、県内をはじめ、県外からも大勢の皆様が来山、花を楽しんでおられます。

大瀧山熊山一帯は県指定自然保護区域、備前市名勝に指定され、四時観光、浄心の客が絶えません。

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